昭和41年08月15日 夜の御理解



 最近人間関係と云う言葉が言われます。人間関係と言うのは、今頃の流行の事でもなからなければ、今始まったものでもないのですけども、そういう言葉を使い出したのは最近なんですね。これは教団だけではありませんよ。全般的に人間関係のと言う事を、お互いひとつ人間関係が円満にスムーズにおかげ頂かなければならん為にはです、どうしても私共が何事も信心になると言う時に、とりわけ馬鹿と阿呆で道を開けと仰るのですから、馬鹿と阿呆で道を開かせて貰うという頂き方になったら。
 人間関係の大変円満に潤滑に行くだろうと私は思う。そんなら馬鹿になって居れば良い、阿呆になって居れば良いということはどう言う様な事だろうかと、私が馬鹿になっとけば良かけんというてこらえとくというのじゃなくてですね、結局私は思うのにですね、私の心が確かに信心になっとかなければならないということです。そこで私どもが例えば人に接する時ですね、まずこういう風に思ったらいいですね。我情我欲と対決するということです。いつも、我情我欲の塊と対決するのだと。
 ですから例えば、我情我欲とぶつかり合う時に火花を散らすような結果になるんですよ。馬鹿と阿呆、そういう事だと思うですね。もうみんなの人が我情我欲の塊だと思うて居らなければならんのです。ですから我情我欲の塊に向かってこちらの我情我欲が少し出たところにもうガツッとくるものがある訳です。ですからよっぽどこちらがやはり信心になって居らなければ、そういう時に私が馬鹿になっときゃいいけんでと辛抱したんじゃいかんのです。不思議に皆さん体験があるでしょう。
 こちらの心が神様に向かうとき、信心に打ち向かうておる時、本気で修行させて貰っておる時、例えば心が和らぎで一杯であったと。どういう我情我欲の人と直面致しましてもです、ひとつも火花が散るような事はないでしょう。全然問題ではないでしょう。ですから私共がです、先ず人間関係、いわゆる人に接する時にです、馬鹿と阿呆にならなければいけない。馬鹿と阿呆になるということは、私自身が和賀心に打ち向かっている時である。和賀心である時であるということ。
 ですから人間全てに接する時、今から我情我欲に接するんだと、我情我欲の塊に打ち向かうんだという気持ちなんです。ですから、こちらが我情我欲を少しでも出したらぶつかり合うということです。打てばピーンと跳ね返って来る様なことになって来るということ。 ですから初めからです、今から我情我欲の塊と接するのでございますからという気持ち。そこに私は本当の意味での人間関係というものがスムーズに、いやそれがスムーズというより有難いことになって来るんじゃないかと。
 只お互いが譲り合わなければとか、こちらが馬鹿になっとかなければと言う様な事では私はいつまで経っても人間関係の有難いという関係になって来ないと思う。どうぞひとつ人に接する、これはもう親子でも夫婦でも我情我欲の塊と思うたら間違いないのですよ。ですからこちらが我情我欲のものを少しでも出して接する時に、それとそれとが例えば口には出さんでも、火花の散るようなものがパッとこう、そのよく申しますでしょう、自分の心にかつんときたと言った様なことを申します。
 かつんとこんで済むのです。そういう意味でですね、私、人間関係に於て私達が信心をもって人間関係を良いものにしていくということの為に、先ず馬鹿と阿呆にならせて頂かなければならんと。 そんなら馬鹿と阿呆とはどういう事かというと、いわば私共が我情我欲を取り去った姿であり、いやまあ取り去るということはなかなか難しいことなのだけれど、相手が全部我情我欲の塊だということ。その塊にこちらの我情我欲が少しでも出たら、それにぶつかり合うんだと言う様な心掛けが、必要じゃなかろうかと思うですね。
   どうぞ。